- 英会話を始める勇気がない
- 外国人と話すことに抵抗がある
- 上手く話せなくて悩んでいる
こんな方を対象にした記事です。
口下手のコミュ障だから、英語で話す方が日本語よりもずっと楽
口下手の根暗・コミュ障・人見知りだから、英会話なんて絶対に向いていない……。
――と、そう信じて止まなかった私。同じように考えているシャイな方も多いでしょう。が、DMM英会話を始めてしばらく経ったとき、私はふとこんな風に思ったのでした。
英語で話す方が日本語よりも楽じゃね?
この記事ではその理由を考察し、日本語と英語をしゃべるときの心境の違いについて綴りました。どこまでも内向的な貴方と、2019年12月14日に逝去した天国のアンナ・カリーナに捧げます。
Contents
人生を諦めた方が上手く話せる
ヌーヴェルヴァーグのディーヴァであるアンナ・カリーナ。
みんな大好きジャン=リュック・ゴダール作品で知られる彼女ですが、売春婦ナナとして出演している映画『女と男のいる舗道』にこんな台詞が出てきます。
上手く話せないことに悩んできた私の人生の中でも一等、心に残っている文言です。
「人は話さないで生きられるだろうか」
映画『女と男のいる舗道』より
「そうできたらいいのに」
「いいだろうね、そうできたら。言葉は愛と同じだ。それ無しには生きられない」
「なぜ? 言葉は意味を伝えるものなのに。人間を裏切るから?」
「人間も言葉を裏切る。書くようには話せないから」
中略
「つまり……人生を諦めた方がうまく話せるのだ。人生の代償……」
「命がけなのね」
「つまり……人生を諦めた方がうまく話せるのだ。人生の代償……」
もちろん、人生を諦めるのは難しい。特に10代の頃の私はいまよりもずっと真剣で、利己的で、臆病で、諦めをまったく知らなかったので、すっかり人と話せなくなっていました。
かくしてブログやmixiの日記に暗澹たる思いつらつらとを認めていたわけですが、この映画を観たとき、まさに自分の考えていることが言語化されていたので驚いたんですよね。


時は経ち、無駄なことも多く話すようになった私は、少なからず人生を諦めてしまったのだと言えるでしょう。だから「明るくなった」ことはさして喜ばしいことでもないわけですよ。本当はね。あのときより人生は楽しいですけど。
日本語の“正しい”言葉が出てこない
とはいえ、未だすべては諦めきれず、一般常識からすれば口下手のコミュ障に分類されるであろう人間。
そもそも人付き合いは最小限に収めたいタイプで、話すことに大きな意味を見出せない節もあるので、しゃべりたくないときにしゃべれないのはいいんです。問題は「しゃべりたいのにしゃべれないとき」ですよね。


なんせ吃音気味で、さらに些か捻くれた考え方をしていると自負しているものですから、あらぬ誤解を与えぬよう、且つ人の気持ちをなるべく乱さぬよう、適切な言葉を選ぼうと考えあぐねるわけです。落胆したくないし、させたくもないから。
しゃべればしゃべるほど、自分自身と自分の言葉が解離していく感覚。意図せず間違った意味で伝わってしまうかもしれないという恐怖。 頭の回転が遅いのか、しゃべっていると日本語の“正しい”言葉が出てきません。
- 思考に合致する言葉が見つからない。
- 誤解されることを恐れている。
- 人を不本意に傷つけたくない。
- 自分の意見を押し通す気はない。
- 話し言葉(口語)が嫌い。
そのうちに自分がなにを話しているのかわからなくなる。ぐちゃぐちゃです。……ああ、もう無理。
普段からこんななので、その昔、アイルランドのダブリンにある英会話スクールに通っていた数か月間以外は、英語の勉強もずっとリーディングばかりしていました。


それが、なにかの折にオンライン英会話スクールに入会。
カランメソッドを始め、DMM英会話で通常の英会話も受講するようになったわけですが、ある程度のスピーキング力が付き始めたある日、自分が英話で話す際には気兼ねなく言葉を発していることに気づいたのでした。
なぜ英語の方が上手く話せる(ような気がする)のか、その理由を考えてみました。
外国人との英会話は諦めの連続


私たちにとって最も簡単な言語は日本語であって、英語はめちゃくちゃ難しい。一年間、毎日オンライン英会話に励んでも、まだまだ下手くそです。実際にしゃべっている音声も下記リンクにあるので、ご興味のある方はどうぞ。
なので英語をしゃべっているときも口下手には違いないのですが、単純に言語能力の低さが原因なんですよね。私の頭の問題ではありません。諦めがつきます。
そしてこの言葉の壁はいつか乗り越えられるかもしれませんが、なにかしらで必ず文化の壁が立ちはだかります。
育ってきた土地や環境がまったく違う人の考え方、感じ方の中には、どうしても腑に落ちない部分が出てくるわけですよね。認め合うことは大事。ただ、理解しがたいことはたくさんあるはず。
英会話の前提
- 上手く話せるわけがない
- 理解し合えるわけがない
でも、だからこそ、無駄に考えすぎずに話すことができるんです。
言語の壁:上手く話せるわけがない


みなさんご存知の通り、特に日本人はスピーキングが苦手とされています。無理もないですよね。練習していないんですから。日常生活でしゃべる必要がないですし。
なので特に最初のうちは、めちゃくちゃ簡単な文章でも詰まることばかり。私なんかは未だに悩んでフリーズします。
……なんて言えばいいんだ……?
単純に語彙力がないんですよね。思いついても1つとか2つ。
あー「foolish」かな。ちょっとキツい言い方になっちゃうけど……。
選択肢なんかぜんぜんありません。つまり、なにか言葉を思いついたら、それをとりあえずぽんぽん出していくしかないわけです。
I though it was foolish!
もしかしたら、まさに「foolishな(馬鹿げた)やつ」や「相応しくないやつ」や「汚いやつ」もあるかもしれません。が、 ほかにまったく思いつかないんだからしょうがない。どれかが当たればラッキー。
例え誤解を生んでしまったり、相手を不快にさせてしまっても、私たちは間違えるのが当たり前の学習者という立場ですから、訂正すれば相手も納得してくれます。
ポイント
学習している身なのだから、間違えたり変なことを言ってしまうのが普通。
私なんかは昔、ダブリンで出会ったスペイン人の女の子をこんな風に不機嫌にさせてしまったことがありました。
スペイン人ってアグレッシブだよね~。
そんなことないよ!?
反応が変だったので、なにかおかしいことに気づいたのですが、「アクティブ(活動的)」と「アグレッシブ(攻撃的)」を間違えていたんですね。


でもこれも「テヘペロ」で終わり。英語学習者の単純なワードチョイスのミスですから、誰も「あのときあんなこと言ったよな……」なんて引きずりません。
英語に少し慣れてくれば使える表現も増えてきますが、それでも日本語に比べたら選択肢は格段に狭いので、ものすごく細かなニュアンスまではいちいち気にしていられない。
とにかく話すこと自体に必死すぎて、言葉を選んでいる余裕なんかないんです。
文化の壁:理解し合えるわけがない


そして、英語を話していてなにより難しいのは、自分の思想・美学・哲学、あるいは日本独特の考え方なんかを伝えること。
これは低い語学力だけでなく、触れてきた文化や育った背景の違いが大きく影響します。こればかりは致し方ない。
ダブリンで出会ったイタリア人の男の子とパブに行ったときなんかは、立ち飲みの人がいるほど多くのお客さんで混みあっていたのですが、そこで彼はこんな風に叫び、私を驚愕させました(笑)。
なんでこんなにシラケてるんだよ! イタリアじゃ考えられない。葬式みたいじゃん。
実は、以前受講していたカランメソッドでも似たようなことが。太陽の色に関する質問があるのですが、これ、答えが「gold」なんですよね。日本人は「赤」とか「オレンジ」などと答えると思うんですけれど。
まあ、これはちょっとした例ですが、外国人と日本人との間に感覚の違いは必ず存在するので、納得出来なくても受け入れなくてはならない場面が多々あります。
ポイント
外国人とは育ってきた環境も文化も違うから、考え方も感じ方も違うのが普通。
ちなみに私は日本人に対しても大きな期待はしない方です。
それでもまったく理解し合えなかったときに少なからず落胆したり、苛立ったりすることを考えると、やはり心のどこかに「理解し合えるはず」という想いがあるのかもしれませんね。
口下手のコミュ障であることは、完全に理にかなっている
さて、私のアイルランド渡航直前、村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が刊行されました。
私はこれをダブリンで読んでいたのですが、奇しくもこの小説では主人公も外国(フィンランド)へ飛び立ちます。そこで見つけたのが、この一節。
それは日本で彼がいつも感じているのとはまた違った種類の孤立感だった。なかなか悪くない、とつくるは思った。二重の意味で一人であることは、あるいは孤立の二重否定につながるのかもしれない。つまり異邦人である彼がここで孤立していることは、完全に理にかなっている。そこには何の不思議もない。そう考えると落ち着いた気持ちになれた。
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 より
本作から考えられるのがこちら「口下手の二重否定」です。
口下手の二重否定につながるのかもしれない
「二重の意味で一人であることは、あるいは孤立の二重否定につながるのかもしれない。」――初めての外国に一人で滞在しているときに読んだ村上春樹の言葉は、孤立しがちな私の心に、それはもうぐっと刺さりました。
そして、少しばかり英語が話せるようになったいま、改めてこの文章を噛み締めてみると、英会話においても同じように考えることができるわけです。
口下手の二重否定
日本語話者である私たちが英語で口下手のコミュ障であることは、完全に理にかなっている。
普段からふざけて馬鹿みたいなことは話しますが、英会話では真剣に馬鹿みたいなことをたくさん話しています。鳥肌が立つほど薄っぺらい言葉で短絡的に話し続けながら「本当の馬鹿みたいに聞こえるな」と思うことすらあります。
でもしょうがない。それが当たり前なんですから。
まとめ:英語での人生はこんなもん


以上を踏まえた上で再び、映画『女と男のいる舗道』より、冒頭で紹介した会話の続きを。
「話すことは、もうひとつの人生だ。別の生き方だ。分かるかね。話すことは、話さずにいる人生の死を意味する。うまく説明できたかな。話すためには、一種の苦行が必要なんだ。人生を利害なしに生きること」
映画『女と男のいる舗道』より
「 でも、毎日の生活には無理よ。つまり、その…… 」
「利害なしに。だから人間は揺れる。沈黙と言葉の間を。それが人生の運動そのものだ。日常生活から別の人生への飛翔。思考の人生、高度の人生というか、日常的な無意味の人生を抹殺することだ 」
なんの利害もなしに、なんの思惑もなしに、なんの畏怖もなしに、ただただ必死に、いま伝えられる言葉を声として紡ぐだけ。私は正しく話せない。私は誰にも理解されない。
こんな風に、英語での人生はこんなもんだと諦めたから、 楽しく英会話を続けているのだと思います。
まあ、だから、もっと流暢になったときにこそ上手く話せなくなるのかもしれません。そのときはそこまで頑張った自分を褒めてあげたいですね。